コモシタ

歴史・沿革

HISTORY
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歴史・沿革

挑戦を恐れず、信念を貫く
私たちが歩んできた道のり

創業1936年(昭和11年)。
大阪・天王寺区の小さな工場から始まった、
株式会社菰下鎔断

今日、数多くのお客様に信頼される企業へと成長できたのは、
数え切れない挑戦と、幾度もの困難、
それでも信念を貫き、前に進み続けたからです。

このページでは、菰下鎔断が直面した数々の挑戦と、それを乗り越えた歩みをご紹介します。

1936-1950年代創業と基盤構築

1936( 昭和11年 )

大阪市天王寺区で創業

創業者・菰下茂が見本市でドイツ製鎔断機と出会ったのは1931年。その後、日本人にも扱いやすいよう改良を重ね、試行錯誤の末に初の国産ガス精密鎔断機を完成させました。そして1936年(昭和11年)6月、この国産ガス精密鎔断1号機を基に「菰下鎔断工作所」が設立されました。

1938

創業者、家族と共に歩むものづくりの道

大正から昭和初期にかけて、ものづくりの発展を支えた創業者。写真は、軍務に就いていた創業者と幼少期の2代目社長を写した一枚です。厳格ながらも家族を大切にし、技術と誠実さを重んじた創業者の姿勢は、次世代へと受け継がれました。戦後の復興期には、茂夫がその志を継ぎ、事業を拡大。幾多の困難を乗り越えながら、現在の菰下鎔断の礎を築きました。

  • 創業者菰下茂と2代目社長菰下茂夫

1940

第二次世界大戦中、軍需産業への供給で生産拡大
海軍軍需局の指定工場となる

1941

大阪市浪速区稲荷町に移転

1943

陸海軍監督工場に認可される

1945

大阪市東成区東今里町に工場移転

  • 移転した「菰下鎔断工作所」と創業者菰下茂

1952

本社を大阪市東成区深江中に移転。
法人化し、「株式会社菰下鎔断工作所」が誕生

  • 1952年4月に落成した本社工場

1954

スプロケット精密切断機を考案、歯型鎔断を始める

挑戦
顧客の声が生んだ鎔断技術の新展開

お客様の依頼を受けスプロケット精密切断機を考案し、歯切鎔断を開始
ただ依頼されたモノを切るだけではなく、顧客の立場に立って共に考え、顧客の声に耳を傾けながら機械装置そのものを創り上げました。

  • 昭和30年代の歯車切断機
  • 昭和40年代の歯車切断機

1960-1970年代成長と多角化

1962

タイヤ専用自動瓦斯切断機を開発・特許第8371845号

プラズマ切断機を改良し、非鉄金属の精密鎔断を研究

  • 昭和30年代のプラズマ切断機

1964

東大阪市高井田西に鎔断工場を増設

当時の様子
声をかけ合い、息を合わせて

当時、多い時で170~180人ほどの職人が働いていました。 社内では心を一つにしてさらなる高みを目指すため、一体感や団結力を強める社内行事にも、この頃から積極的に取り組んでいました。餅つき大会や社員旅行といった行事は、現在も続いています。
「声をかけ合い、息を合わせて一致団結」
鎔断の現場では、前工程と後工程が連携し、息を合わせることで、お客様に胸を張って納品できる品質が保たれるのです。

1965

社団法人全国日本学士会よりアカデミア賞を受賞

1967

プラズマ切断用と自社開発のオリフィスで特許を取得・特許第42-52531号

1968

東大阪市高井田中にSC材の鎔断工場と機械工場を増設(第三工場)

  • 第三工場の全景

1971

本社工場を建て替え

1972

定寸多量自動ガス切断装置で特許取得・特許第924337号

1973

東大阪市西堤本通東に栄町工場落成

1975

大阪府知事より技能顕功賞授与

大型アイトレーサーの導入

革新
大型アイトレーサー導入で切り拓く精密鎔断

1975年、栄町工場に業界最大級の大型アイトレーサーを導入しました。この装置は墨書きされた図面に光を当て、その反射光を光学的に処理して自動でガス切断を行うもので、高精度な型切りを可能にしました。
当時としては最大級の大きさの設備であり、業界内で先陣を切る快挙となりました。この導入により、製品の品質と生産効率が大幅に向上しました。

1976

「神奈川工場」が独立し、関連会社として株式会社菰下精密鎔断を設立

創業40周年 取締役会長に菰下茂、代表取締役社長に菰下茂夫が就任

労働大臣より卓越技能章授与

近畿地方発明協会より発明奨励賞を受賞

1977

東大阪市高井田中に「硝子鋼管事業部」を設立

勲六等単光旭日章を受賞

栄誉
信念と努力が実を結んだ勲章受章

創業者・菰下茂は鎔断業界における数々の発明と特許取得、そして「良い品を安く作って、お客様に喜んでいただく」というモットーを貫いた実績が評価され、勲六等単光旭日章を受章しました。

1979

近畿地方発明協会より発明奨励賞を受賞

1980-1990年代技術革新と
組織改革

1980

岡山営業所開設

1983

現在地(大阪府貝塚市港)に本社・工場を新設移転
また、移転に先立ち大阪市東成区深江北に大阪営業所を新設

貝塚への移転により、多くのメリットを得ました。まず、工場の統合により業務効率が向上し、仕事の生産性が5割アップ。また、東大阪時代の渋滞問題を解消し、物流のスムーズな運営が可能になりました。特に1993年の阪神高速4号湾岸線の開通により、アクセスが飛躍的に向上。さらに、広い敷地を活かし、大型機械の導入で厚物・重量鋼材への対応力を強化。社内のコミュニケーションも向上し、組織全体の結束が高まりました。

1985

関連会社として有限会社鋼管ガラスを設立

挑戦
バブル期のピンチをチャンスに!

1980年代半ば、バブル経済の波に乗り、日本各地で不動産開発が活発化。 仕事が急増し、工場は24時間稼働の2交代制となりました。納期厳守を徹底していた茂夫でしたが、注文が殺到し、「切っても切っても追いつかない」状態に。取引先からは「手入れなしでいいから、とにかく早く」と急かされることもありました。

さらに、1985年のプラザ合意による急激な円高が日本経済に打撃を与える中、茂夫はこの状況をチャンスと捉えました。鋼材のストックを充実させることで、価格変動のリスクを抑え、安定供給を実現。国内外から多品種・多用途の鋼材を調達し、製造業や土木・建設業の幅広いニーズに応えられる体制を整えました。

1991

「丹後フランジ工場」を新設

1993

天然ガス鎔断への切替え

挑戦と決断
環境対応と技術力で実現した天然ガス転換

1993年6月、業界に先駆けて、鎔断用の燃料をプロパンガスから天然ガスへと切り替えました。この決断の背景には、地球温暖化対策や環境保全の意識の高まりがありました。当時、政府の「地球温暖化防止行動計画」により、製造業でも二酸化炭素排出の少ないエネルギーの導入が推奨されていました。

天然ガスへの切り替えには課題もありました。燃焼温度がプロパンより低いため、作業効率の低下が懸念されましたが、独自の火口「コモーカット火口」を開発し、温度を2800℃まで高めることで課題を克服しました。この技術革新により、環境負荷の低減と高品質な切断加工を両立させることに成功しました。

1994

本社ビル、厚生棟落成

1995

6kWレーザー機設置

1997

自動開先ロボット設置

データ管理一元化

1995年にはパソコン版CAD/CAMを導入し、データ管理を一元化。CNC切断機の活用による高精度加工を推進し、受注データをネットワークサーバーで管理することで、追加注文にも迅速に対応可能な体制を整えました。これにより、作業の効率化だけでなく、顧客対応力の向上にも貢献しました。

1997

九州営業所開設

1999

関連会社として高圧フランジ株式会社を設立

2000-2010年代グローバル展開と
持続可能性

2002

関連会社の有限会社鋼管ガラスが貝塚市二色南町に移転

取締役会長に菰下茂夫、代表取締役社長に川端正が就任

レーザー工場を新設

挑戦
レーザー工場新設で広がる加工の可能性

2002年11月、レーザー工場を新設しました。これにより、ガス切断だけでなく、より精密なレーザー切断が可能になり、顧客の多様なニーズに対応できる体制を整えました。新設された工場には、パレットチェンジャー付きの最新レーザー機を導入し、生産効率を大幅に向上させました。また、レーザーチームには経験豊富な技術者が加わり、精度向上に貢献。試行錯誤を重ねながら、納期短縮と品質向上を実現しました。

  • パレットチェンジャー付レーザー機

2003

材料ヤードを貝塚市二色南町に移転

2004

プレス事業部を貝塚市二色南町に新設

株式会社嶋鋼業所より営業譲渡を受け、嶋事業所(石川県能美郡寺井町)開設

2005

代表取締役社長に菰下千代美が就任

経営理念
「四方良し」の精神

「四方良し」の理念は、菰下千代美社長が経営塾で「理念とは何か」を学ぶ中で生まれました。千代美社長は、菰下の経営理念について茂夫会長に尋ねたところ、「売り手良し・買い手良し・作り手良し」の三方良しを掲げていました。特に「作り手良し」は、職人が精度の高い製品を作り、お客様に喜ばれた時に得られる無上の喜びを表したものでした。

千代美社長はさらに「世間良し」を加え、企業が社会貢献することの重要性を強調。「売り手・買い手・作り手・世間」の四方が満たされる経営を目指し、『四方良し』が誕生しました。茂夫会長もこの提案に賛同し、経営理念として掲げることになりました。

2006

嶋事業所を新設移転し、北陸事業所(石川県能美市)とする

2007

熱処理に関するJIS認証を取得(焼ならし及び焼なまし加工)

岡山営業所を新設移転し、玉野事業所(岡山県玉野市)とする

2011

貝塚市港に事務所、第二工場を新設

創業75周年を迎える

心を一つに、「納涼コモ祭り」を開催

交流
社員をつなぐ納涼コモ祭り

2012年、社員有志の発案により、初の「納涼コモ祭り」を開催しました。祭りでは、社内にやぐらを設置し、社員が家族とともに盆踊りを楽しみました。社内行事の一環として、祭りの前には残業時間を活用した盆踊り練習も実施。輪の中に入ることに抵抗があった社員も、次第に踊りを楽しめるようになりました。現在も続く夏の恒例行事となっています。

2013

プレス事業部を本社工場に移転し1000tプレス新設

2014

井上金属工業株式会社(兵庫県尼崎市)を株式取得によりグループ会社とする

本社工場に調質用設備新設

2015

熱処理に関するJIS(日本工業規格)認証を取得(焼入焼戻し加工)

2016

東京営業所開設

創業80周年

節目
創業80周年、次の100年への誓い

2016年6月1日、創業80周年を迎え、大阪のザ・リッツ・カールトン大阪で記念式典と祝賀パーティーを開催しました。顧客、取引先、関係者を招待し、感謝の意を表する場となりました。式典では、菰下茂夫会長が「これからも技術の革新を続け、100年企業を目指す」と挨拶。JFEスチールや椿本チエインの代表からも祝辞が贈られ、長年の信頼関係が強調されました。6月25日には、社員への感謝を込めた祝宴がスターゲイトホテル関西エアポートで開催されました。

2017

葵産業株式会社(大阪市中央区)をグループ会社とする

ISO9001:2015認証取得

2018

平成29年度 大阪府商工関係者知事表彰 ≪事業所表彰≫ 受賞

研修棟・宿泊棟新設 保育室ココモを設置

貝塚市港に、第三工場を新設

大阪府ものづくり優良企業賞2018受賞

2020年代新たな挑戦と
未来への展望

2020

代表取締役社長に菰下茂夫が就任

新型コロナウイルスの影響下でも事業継続と社員の安全を両立

株式会社 深江鎔断(大阪市東成区)、株式会社 大徳鉄工(石川県河北郡津幡町)をグループ会社とする

2021

岸和田市岸之浦町13番13にちきり工場新設

挑戦
「ちきり」新工場建設の新たな挑戦へ

2021年、新たな挑戦として岸和田市に「ちきり工場」を新設。新型コロナウイルスの影響で業界全体が混乱する中、未来への成長戦略として決断しました。工場では二次・三次加工を強化し、従来の切断技術に加え、熱処理・製缶・曲げ・表面処理を一貫して提供可能に。最新設備導入により、品質と生産効率が向上。

三次元測定機を導入

2022

本社工場に焼鈍焼準用熱処理炉2号炉を新設

2023

社員食堂新設

社員の健康と働きやすさを重視し、社員食堂を新設しました。従来の昼食は弁当業者から配達されるものでしたが、コンビニ食で済ませる社員も多く、栄養バランスの課題がありました。そこで社内で栄養士と調理師を採用し、調理室を併設。手作り弁当を提供することで、健康管理をサポートしました。

ちきり工場見学会を開催

エコアクション21、本社認証取得

全自動開先加工機を導入

2024

玉野事業所の事務所を建て替え
自社開発のパレットチェンジャーが完成(玉野事業所に設置)
玉野事業所にファイバーレーザー切断機(20kW)
パレットチェンジャー付8段ストッカを導入

北陸事業所にファイバーレーザー切断機(20kW)
パレットチェンジャー付8段ストッカを導入

ちきり工場にNC鎔断機を導入

九州営業所の事務所を新設

山内鉄工株式会社(大阪府堺市)をグループ会社とする

本社第二工場にファイバーレーザー切断機(20kW)
パレットチェンジャー付8段ストッカを2台導入

ちきり工場に第二工場を新設

2025

ちきり工場の名称を「ちきり事業所」へ変更

株式会社ミライが販売代理店として設立される

株式会社KYGホールディングスを設置し、グループを持株会社体制に移行
菰下鎔断代表取締役社長に菰下喜哉が就任

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